平和よ 2016夏・会いたい/6 表現の自由を守るために たえざる努力、次世代へ 奥平康弘さん
毎日新聞2016年8月19日 東京夕刊
憲法研究者・奥平康弘さん(2015年死去、享年85)
憲法学者が愛用した書棚に1冊の文庫本を見つけた。ドイツの哲学者、カントが記した「永遠平和のために」。「表現の自由」を巡る研究の権威として知られる奥平康弘さんの自宅である。妻のせい子さん(86)は「康弘が最後に読んだ本なんです」と教えてくれた。ページをめくると、2枚のメモ用紙が挟まれていた。走り書きにも見える文字で、こうつづられていた。
<永遠の平和に向けてたえざる努力>
<空虚な理念ではなくわれわれに課せられた使命>
平和のために私たちは何をすべきか−−。奥平さんのラストメッセージの意味を知りたくなった。
昨年1月25日の夜、夫妻は時事問題を語り合う普段通りの時間を過ごしていた。奥平さんはせい子さんにこう尋ねた。「君はこのごろ、平和についてどう考えているの?」。せい子さんが「平和は唱えるだけじゃだめ。積極的につくりあげていかなきゃ」などと答えると、奥平さんは何度もうなずいたという。
だが明朝、奥平さんは浴室で亡くなっていた。急性心筋梗塞(こうそく)だった。突然の別れから約1年7カ月。せい子さんは時折、奥平さんの言葉を思い出す。「僕には腕力はないけれど、言葉でなら戦える」
こう言った通り、奥平さんは2004年に作家の井上ひさしさんらと「九条の会」の呼びかけ人に加わり、14年には「立憲デモクラシーの会」の共同代表に就任したほか、市民団体「戦争をさせない1000人委員会」の発起人にもなった。これらの団体の記者会見や講演会で、国民の権利を侵害しかねない政府の動きを厳しく批判してきた。とりわけ民主主義の根幹である「知る権利」を侵害するとして、特定秘密保護法の反対運動に力を尽くした。「特定」の範囲が広く、知る権利が大きく損なわれれば、国民は正しい判断ができなくなり、国民主権が脅かされる。とても容認できるものではなかった。
「学者」と呼ばれることを嫌い、自ら「憲法研究者」と名乗った奥平さんは、市民運動にも積極的に参加した。市民の知る権利を擁護し、その実現を目指すNPO法人「情報公開クリアリングハウス」(東京都新宿区)の理事、奥津茂樹さん(56)は「1980〜90年代、先生は市民運動の理論的支柱だった」と語る。行政に情報公開を求める市民団体の求めに応じ、どんな小規模な講演にも足を運んだという。「戦前の自由がない社会に戻るのはたやすい、という危機感を抱いていたからだと思います」と奥津さんは振り返った。
自由を制限する動きに敏感になった原点は、少年期を過ごした戦時中にあった。故郷の北海道函館市ではこんな体験をした。捕虜収容所の前を兄と通りかかった時、兄が何気なく板塀の穴から中をのぞいた。すると運悪く見回りの兵士に見つかり、兄は収容所で殴る蹴るの暴行を受けた。
旧制弘前高校に入学した47年に日本国憲法が施行され、50年に東大法学部へ進学、憲法を選択した。その理由をこう述懐している。
<ぼくの頭から離れなかった問題は、国家が赤紙一本で人を徴兵し、戦争に従事させる、そして戦死は名誉であるという。じゃあ、国家って何だろう。その権力の背後に何があるんだろう、ということだった>(「憲法を生きる」)
せい子さんは夫の胸の内をこう推し量る。「康弘は『兄が殴られても、自分は傍観するだけで助けられなかった』と悔やんでいました。戦争によって庶民の人権や自由が抑圧された記憶があるから、表現の自由を追究したと思うのです」
奥平さんが国際基督教大教授のころ、同僚だった東大名誉教授(政治学)の姜尚中(カンサンジュン)さん(66)は「先生は『自由とは何だろうか』と自問されているようでした」と語る。
社会は大きく変化している。安倍晋三政権は多くの国民の反対を押し切り、安全保障関連法を成立させた。7月の参院選を経て国会では「改憲勢力」が、憲法改正の発議が可能な3分の2を超えた。この現実に、奥平さんは何を語るだろう。
姜さんは一呼吸置いて、切り出した。「表現の自由など個人の自由の重要性を再認識してほしい、と改めておっしゃるのでは。なぜなら、安倍首相が支持を得ている理由に、首相が押し出す『強さ』に国民がひかれている面があります。これは個人が自由な思考で判断するよりも、自らの自由を為政者に預けたに等しい。いわばポピュリズム。奥平さんは『それは危険だ』と声高に叫んだと思います」
「未完の憲法」で立憲主義や改憲をテーマに対談した首都大学東京教授(憲法学)の木村草太さん(36)を訪ねた。タイトルには「憲法は未完であり、世代を超えた国民が理想を実現していくもの」という奥平さんの考えが反映されている。対談は13年10月に2日間にわたって行われた。2人は学会などで面識はあったが、長時間意見を交わすのは初めてだった。
平和と表現の自由の関係について、木村さんの答えは明快だった。「国家が戦争をすると必ずといっていいほど、表現の自由を制限します。政府批判の言論は戦争遂行に障害だからです。また戦争は政府の特殊な都合で始まる場合もあります。その事情を公にすると、戦争遂行の妨げとなるからです」
木村さんの表情に深刻さが増してきたようだ。「戦争は突然始まるものではありません。ノミで削られるように、自由が少しずつそがれて戦争に至る。だからそのずっとずっと手前で声を上げてくい止めなくてはならないのです」
とはいえ、「徴兵制導入などの『いざ』が来れば必ず反対するから、今は大丈夫」。多くの人はそう思っているかもしれない。だが奥平さんは著書「憲法にこだわる」でこう記している。
<『いざというとき』とは一体、『どういうとき』なのだろうか。(中略)私の歴史理解によれば、『いざというとき』というものは、忽然(こつぜん)と現れ、確実に諸君の反感をさそう形をとるとは限らない。いろんな現象が積み重なって、少しずつジワジワと到来する風潮、個々の小さな反対運動がつぶされ、気がついてみたら、みんなが大きな流れに巻き込まれ、体制どおりの方向に動いている>
奥平さんが「9条と平和」について積極的に発言を始めたのは、91年の湾岸戦争からだった。「国際貢献」を大義名分として政府が進める自衛隊の海外派遣に疑問を呈し、9条の形骸化につながると反対の声を上げた。「『いざ』は今なんだ」との思いが突き動かしたのだろう。
そして14年7月に安倍内閣が集団的自衛権の行使を可能にするために憲法解釈を変更したことを、こう批判した。
<日本が勝ち取った平和主義を変える恥ずべき行為です。(中略)安倍晋三首相が言う『積極的平和主義』は、武力でとりあえず戦争をやめようという考えです。つまり平和主義ではない>(信濃毎日新聞14年8月14日朝刊)
木村さんも昨年の安保関連法案審議の際は、「違憲のため法案は無効」との論陣を張った。木村さんは自らの役割を「憲法的雪かき」と呼ぶ。雪かきは面倒だから誰もやりたくないが、誰かがやらねばならない。奥平さんは追究した真理を社会に届け続けた、と木村さんは敬意を持って受け止めている。「先生の姿勢を引き継ぐつもりです」。対談を通じて「雪かき」を担当する決意はさらに深まったという。2人の年齢差は50歳以上だが、奥平さんの思いは確実に受け継がれていた。
日本は9条のもと平和文化築いた
後年、奥平さんは「日本は9条のもとで平和文化を築いてきた」という趣旨の発言をしてきた。
<日本がここまで来たのは、(中略)いい文化をつくらねばならないとやってきたからです。いい文化の中には平和文化というのが重要な要素としてあり続けてきた。それは今もあるはずだし、あらねばならない>(同前)
「平和文化」を後世の人たちも生かし育ててほしい、と奥平さんは願ったに違いない。その具体化の一つが、他国と争うことがなく、変わらぬ平和な日常を求めて安保関連法に反対した学生グループ「SEALDs(シールズ)」といった若者たちだといえまいか。
永遠の平和に向けてたえざる努力。個人の力はとてつもなく小さい。しかし、奥平さんの行動や思いを次世代が受け継いでいけば、その努力は結実するのではないか。奥平さんのラストメッセージを前に改めてそう思った。【江畑佳明】
■人物略歴
おくだいら・やすひろ
1929年、北海道函館市生まれ。東京大法学部卒。東大名誉教授。著書は「知る権利」「なぜ『表現の自由』か」「いかそう日本国憲法」など多数。ダム建設汚職を暴く若手上院議員を描いた米映画「スミス都へ行く」(39年)がお気に入りだった。