現代人を救う禅の力
毎日新聞2016年8月2日 東京夕刊
安倍晋三首相、米アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏、京セラの稲盛和夫名誉会長、その共通点とは−−。答えは「禅」。今、政治家や企業人が座禅を組み、書店には禅関連の本が並ぶ。鎌倉時代に仏教の一宗派として広まってから820年余り、なぜ現代人は「禅」を求めるのだろうか。【横田愛】
苦悩と疲労が洗い落とされる
7月初め、東京の下町、台東区谷中にある臨済宗「全生庵(ぜんしょうあん)」を訪れた。江戸城の無血開城に尽力した山岡鉄舟が開いた禅寺で、中曽根康弘元首相をはじめ政治家や企業トップが多く訪れ、安倍首相も時折、ここで座禅を組む。
「訪れる人の理由は人それぞれだと思いますけどね。経営も政治も100%『良い』という方針や政策はない。それでも彼らは決めなくてはいけない。決めれば大なり小なり批判は浴びる。気にするなというほうが無理がある。そのようなものを落としに来るのではないでしょうか」。住職の平井正修(しょうしゅう)さんは言う。
座禅の基本は「調身(ちょうしん)、調息(ちょうそく)、調心(ちょうしん)」。姿勢をととのえ、深く長い呼吸に意識を集中する。そして、呼吸の数を数える「数息観(すそくかん)」で雑念を意識の外に流し、心を穏やかにととのえていく。
中曽根さんは首相当時、毎週末の夜に全生庵に通っていた。自著「自省録」に「健康で五年間の首相時代をまっとうできたのも、座禅のおかげです。一週間の肉体的精神的苦悩と疲労が洗い落とされるのです」と書いている。
当時は平井さんの父が住職を務め、中学3年だった平井少年も呼ばれて一緒に座禅を組んだ。「初めて会った政治家が首相だった中曽根さん。戦後日本を作ってきた自負心、日本に対する責任感みたいなものがすごくてね。大きな岩がドーンと座っている、という感じでしたね」
安倍首相は2007年9月に首相を退いた後、失意の中で全生庵の門をくぐった。以来、月に1度は訪れ、12年12月には首相に復帰。7月の参院選にも勝利し、首相在職日数は戦後4位の中曽根さん(1806日)に迫ろうとしている。
ただ、平井さんの目には、心もとなく映るところがあるようだ。「木は根っこさえしっかりしていれば、傾こうが枝が折れようが倒れない。でも根は普段は見えません。今の首相は木の上の部分は立派だけど、根っこはちょっと弱いかもしれない。それは今の日本人すべてに言えることだと思いますけどね」
悩みを解決するヒントがある
統計では、携帯電話を1人1台以上持つ時代。所構わず着信音が鳴り、ネット閲覧やゲームに興じる。情報過多でせわしなく、自らと向き合う時間が少ない現代では、地に根を張るような人物は育ちにくいのかもしれない。
こうした現状に一石を投じようと動いたのは、経営コンサルティング会社「シマーズ」(東京都中央区)の島津清彦社長。大手不動産会社社長を退き、12年4月に起業。昨年夏から禅の思想を取り入れた企業研修の提供を始めた。
島津さんは長年、人事部門のトップを務めてきたが、IT(情報技術)の高度化で情報量も仕事のスピードも増す中「知識・スキル偏重で、人間力や心の鍛錬が置き去りにされている」と感じてきた。そんな折に東日本大震災が発生。千葉県内の自宅が液状化で大規模半壊し「人生後悔したくない。人間本位の社会、会社を作る手助けをしたい」と一念発起した。
「著名な経営者について調べたらみんな禅に行き着く。ああこれは何かあるな、と」。12年8月に曹洞宗で得度。連日座禅を組むと、集中力が増し、くよくよすることがなくなったと感じた。心が落ち着くと、周囲への気配りもできるようになる。「ストレスまみれのビジネスパーソンの悩みを解決するヒントが、確かにある」と実感した。
昨年夏から、座禅や禅語の解説を組み合わせた企業研修の提供を開始。大手企業や官庁など1年で16社の研修を請け負った。「メンタル対策」「リーダーシップ強化」「教養として」−−。企業側の理由はさまざまだったが、一様に「今までの研修だけではうまくいかない」と島津さんに打ち明けた。
人材育成の観点で座禅や瞑想(めいそう)を取り入れる動きは、グーグルやゴールドマン・サックスなど日本以上に欧米の企業が先行している。禅に由来する「マインドフルネス」という瞑想法で、同じく「調身、調息、調心」を基本とする。
「マインドフルネスのルーツって実は禅だよね、と逆輸入する形で日本人も気づいた。企業は禅を宗教というよりも課題解決のカギと考えている。『禅』というより『ZEN』と受け止めているのでしょう」と島津さんは言う。
禅を取り入れる動きは企業にとどまらない。日本大学は今年4月に新設した危機管理学部(東京都世田谷区)で座禅の講座を設けた。構内に専用の座禅室も作り、1年生は原則月1回90分、座禅講座を受講する。同大教学サポート課の堀敏一課長は「災害やテロが目の前で発生した場合、知識だけでは対応できない。どんなときでも心を落ち着かせ、冷静に対応できる人格形成には座禅がいいと考えた」と説明する。
一宗教を取り入れることについて学内で議論になったが、客員教授として学生の指導に当たる全生庵の平井さんとの間で「宗教的な説話はしない」と確認。堀さんは「禅でなくてもよかったかもしれないが、大学として、身近で有効なものはやはり禅だと捉えた」と話す。
心穏やかに「乱世」過ごす
なぜ、これほど禅は広がりを見せているのだろう。
中国から渡った禅の教えが、日本で普及したのは鎌倉時代。特に武士階級から強い支持を受け、各地に禅寺が建立された。「ざわめく心の静め方」など禅関連の多くの著書がある曹洞宗建功寺(横浜市鶴見区)の住職、枡野俊明(しゅんみょう)さんは、鎌倉時代と現代の有りようが「似ている」と言う。
時に近親者でもだまし合って国取り合戦を繰り広げた時代。何を信じてよいか分からず、気が落ち着く間もなかった。翻って今は、国の先行きも世界情勢も不確かで、情報に振り回されて右往左往している。「乱世」を、心穏やかに過ごすための術として、禅が求められていると見る。
「まだまだ生活は便利になるでしょうが、競争を強いられ精神的負荷もさらに重くなる。暮らすのが大変な社会に確実になっていく」と枡野さん。「今の世の中、走りっぱなしでしょう。禅に『七走一坐(しちそういちざ)』という言葉があります。階段の踊り場と同じで、7回走って1回座る。仕事をする際も1回休んで自らを見つめ、『よし』と確認してまた進む。それが必要じゃないかと思うんですよ、現代社会には」
多難な時代を生き抜く知恵袋。それが多くの人をひきつける理由なのかもしれない。