戦後70年:「玉音放送」原盤初公開 戦争終結、導いた舞台
毎日新聞 2015年08月01日 東京朝刊
戦後70年に合わせ、皇居内に作られた防空壕(ごう)の「御文庫(おぶんこ)付属庫」の写真や「終戦の詔書」の玉音放送の原盤レコードと音声が1日、公開された。付属庫は、ポツダム宣言の受諾を決めた御前会議が開かれた場所。玉音放送は昭和天皇が自ら戦争の終結を国民に告げたラジオ放送。ともに歴史の転換点を伝える資料だ。(文中の肩書は当時のもの)【真鍋光之、高島博之】
◇2度の御前会議で「聖断」 防空壕「御文庫付属庫」
皇居の中に建設された防空壕「御文庫付属庫」。その内部の写真が公開されたのは1965年以来で50年ぶりだ。70年前に終戦の「聖断」が下された会議室は床などが朽ち果てていた。
付属庫の建設が始まったのは日米開戦が迫った41(昭和16)年8月12日だった。宮内庁や資料によると、東条英機陸相が陸軍築城部本部に「250キロ爆弾に耐えられる防空壕」を9月末までに造るよう指示。皇居の警衛を担当する近衛第1師団が1日平均1500人の兵隊を動員し、完成した付属庫は9月末に宮内省(当時)に引き渡された。
昭和天皇の住まいの御文庫から北東に約100メートル離れた小高い丘を切り崩し、厚さ3メートルの鉄筋コンクリートで外壁を築いた堅固な空間だった。
出入り口は東西に2カ所あり、約22メートルの通路を通って内部に入る。60平方メートルの会議室や空気清浄機が置かれていた機械室(78平方メートル)などがあった。
宮内庁は、終戦20年の65年8月にも、同年に撮影した会議室や62年撮影の鉄製の扉などの白黒写真を公開している。それらの写真からは、ほぼ建設時の姿をとどめていた内部の状態がうかがえる。しかし、今回公開された写真からは、その後の50年の経過で大きく様子が変わったことがわかる。機械室はダクトなどが散乱。緑色だった扉は赤さびに覆われている。
二つある事務室の南側は昭和天皇が会議の前などに利用する「御休所(ごきゅうしょ)」だったとされる。会議室に隣接して、昭和天皇専用の洋式トイレ「御厠(かわや)」もあった。
終戦に向けた45年8月10日と14日の御前会議は、この付属庫の会議室で開かれた。
同年7月26日、連合国側は日本に降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。日本政府は「黙殺」の立場を取ったが、8月6日の広島原爆投下、9日の長崎原爆投下、ソ連参戦などから戦争終結へと追い込まれた。
しかし、ポツダム宣言への対応を巡り、「国体護持」だけを条件に受諾すべきだとする外相案と、「武装解除と戦犯の処置を日本人に任せる」ことも条件に加えるとした陸相案が対立した。
昭和天皇が出席した御前会議は8月10日午前0時3分から開かれた。軍の首脳や閣僚らの議論を経て、午前2時過ぎ、鈴木貫太郎首相から意見を求められた昭和天皇は、外相案に賛成し、ポツダム宣言受諾の方針が固まった。
だが、12日に届いた連合国の回答は国体護持に対してあいまいな表現だったため、陸軍は強く反発。昭和天皇は14日午前11時2分、付属庫で再び御前会議を開く。ここで戦争終結の意思に変わりはないという2度目の「聖断」を示し、終戦が最終的に決まった。
◇深夜、軍服姿で録音 玉音放送の原盤レコード
終戦の詔書=国立公文書館所蔵
昭和天皇が「終戦の詔書」を読み上げた玉音放送の録音は、1945年8月14日深夜に行われた。軍服姿の昭和天皇は午後11時25分に皇居内の宮内省内廷庁舎2階政務室(現在の宮内庁庁舎)に出向いた。びょうぶを背にしてマイクの前に立ち、録音に臨んだ。記録によれば、石渡(いしわた)荘太郎(そうたろう)宮内相や藤田尚徳(ひさのり)侍従長らがそばにいた。
録音作業は同11時50分ごろ終了。音声は複数のレコード盤に録音され、侍従職事務官室の金庫に収められた。
その後、ポツダム宣言の受諾に反対する一部の将校が、近衛第1師団長を殺害し、レコード盤を奪取しようとした。しかし目的は遂げられずに鎮圧された。
レコード盤は現在の東京都千代田区内幸町にあった放送会館に運ばれ、8月15日正午、全国にラジオ放送された。昭和天皇はこの日、御文庫付属庫の会議室で開かれた枢密院会議に出席していたが、会議を中断し、隣室で放送を聞いた。
宮内庁によると、録音は2台の録音機をセットにして行われた。詔書の朗読時間は4分30秒だが、当時の技術では1枚のレコード盤に約3分しか録音できなかった。このため1台目の録音機で朗読を録音中に、2台目での録音を開始することで、音声が途切れないようにした。
この方法で、録音機は2セット、計4台が使われた。一方のセットでは、レコード盤2枚を使って録音した。もう一方のセットでは、3枚に分けて録音した。こうしてできた2組み計5枚のレコードを、「正本」とした。ラジオ放送に使用したのはどちらか。宮内庁はレコードの数が少ない2枚組みを使ったと推定している。
今回公開されたのも2枚組みに録音された音声だ。3枚組みの方は、うち1枚が破損のため再生できない。5枚のレコードは薄紙に包まれて缶に入れられ、宮内庁の金庫室に保管されていた。
正本の前に録音され、音声が不明瞭なところがあり使用されなかったレコード盤もあった。これは「副本」とされ、1975年にNHKに貸し出された。NHK放送博物館で保管されている。貸し出されたのは7枚で、いずれも傷みが激しいため再生できないという。
◇400メートル先に英国大使館、工事悟られぬよう 建設従事の将校
御文庫付属庫の建設に携わった将校の一人、梶原美矢男(みやお)さん(2014年4月に94歳で死去)は生前、次男の真悟さん(66)に「工事車両の出入りが英国大使館から見えるので、カムフラージュに苦労した」と語っていたという。真悟さんが毎日新聞の取材に語った。
美矢男さんは当時、独立工兵第21連隊に配属されており、建設現場を指揮する将校を補佐していたという。現場は日本との緊張が高まっていた英国の大使館から約400メートルの場所に位置する。軍は、工事を察知されることで戦争準備が進んでいることを英国側に知られることをおそれた。
美矢男さんが真悟さんに語った話によると、トラックの荷台の下半分にだけ資材を積み、その上に兵隊を座らせて、兵隊が移動しているよう装った。
美矢男さんは戦後、「御前会議の場所は俺たちが造った」と語っていたという。税理士の仕事の傍ら歴史研究を行っていた真悟さんは、付属庫の資料を集め、美矢男さんから聞き取りをし、記録にまとめた。「歴史の舞台として保存し、機会があれば公開してほしい」と話している。
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◇終戦の詔書
(原文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以(もっ)テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其(そ)ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々(そもそも)帝国臣民ノ康寧(こうねい)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(とも)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(けんけん)措(お)カサル所曩(さき)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ゆえん)モ亦(また)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如(ごと)キハ固(もと)ヨリ朕カ志ニアラス然(しか)ルニ交戦已(すで)ニ四歳(しさい)ヲ閲(けみ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々(おのおの)最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)を殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而(しか)モ尚(なお)交戦ヲ継続セムカ終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(かく)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(せきし)ヲ保(ほ)シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是(こ)レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想(おもい)ヲ致セハ五内(ごだい)為(ため)ニ裂ク且(かつ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(こうむ)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(しんねん)スル所ナリ惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善(よ)ク之(これ)ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(しんい)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若(も)シ夫(そ)レ情ノ激スル所濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ或(あるい)ハ同胞排擠(はいせい)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道(だいどう)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜(よろ)シク挙国一家子孫相伝ヘ確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ
(大意)
私は深く世界の大勢と日本の現状に鑑み、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、忠実で善良な国民に告げる。
私は政府に米国、英国、中国、ソ連の4カ国に対しそのポツダム宣言を受諾することを通告させた。
そもそも、国民の安全確保を図り、世界の国々と共に栄え、喜びを共にすることは、天皇家の祖先から残された規範であり、私も深く心にとめ、そう努めてきた。先に、米英2カ国に宣戦を布告した理由も、帝国の自存と東亜が安定することを願ってのことであり、他国の主権を排除し、領土を侵すようなことは、もちろん私の意思ではなかった。
しかしながら、戦争はすでに4年を経て、わが陸海軍将兵の勇敢な戦闘や、官僚たちの勤勉な努力、国民の無私の努力は、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢も日本に不利に働いている。
それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して、罪のない人々を殺傷し、その被害ははかり知れない。それでもなお戦争を継続すれば、ついにわが民族の滅亡を招くだけでなく、人類の文明をも破壊してしまうだろう。そのような事態になれば、私はどうしてわが子ともいえる多くの国民を守り、代々の天皇の霊に謝罪することができようか。これが、私が政府にポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。
私は日本とともに終始、東亜の解放に協力してきた友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。
国民で、戦場で死亡し、職場で殉職し、思いがけない最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると、身が引き裂かれる思いがする。さらに戦場で負傷し、戦災に遭い、家や仕事を失った者の生活については、私が深く心配するところである。思うに、これから日本の受けるであろう苦難は尋常ではない。あなたたち国民の本心も私はよく知っている。しかし、私はこれからの運命について耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで、将来のために平和な世の中を切り開こうと願っている。
私は、ここにこうして国体を護持して、忠実で善良な国民の偽りのない心を信じ、常にあなた方国民と共にある。もし激情にかられてむやみに事をこじらせ、あるいは同胞同士が排斥し合って国家を混乱に陥らせて、国家の方針を誤って世界から信用を失うようなことを私はもっとも戒めたい。国を挙げて一つの家族のように、子孫ともどもかたく神の国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志をかたく持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないよう努力すべきだ。あなた方国民は私のそのような考えをよく理解してほしい。(公益財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館監修)