東京電力福島第一事故を振り返る 懸命な復旧、錯綜する情報
2011.12.19 電気新聞 12頁
東京電力福島第一原子力発電所事故の発生から9カ月。政府と東京電力は16日、事故収束の目安となる「冷温停止状態」を宣言した。本紙では事故直後から、総力を挙げて刻々と変わる事故の状況や収束への取り組みについて、詳細に報道してきた。大きな節目となる今回、事故報道に携わってきた記者による座談会を開催、あらためて事故を振り返るとともに、今後の課題などを話し合った。
○出席メンバー
山田明彦(編集局記者)
浜義人(編集局記者)
濱健一郎(東京支局記者)
古川愛弓(東京支局記者)
○司会
佐藤貞(編集局総合デスク)
◆先が見えない不安抱え 住民が戻っての“終息”
◇記者座談会(第1回)
――事故発生から9カ月、本紙では刻々と変わる事故の状況や、収束への取り組みを詳細に報じてきた。事故直後、東電の明かりのない真っ暗な玄関ロビーに座り、恐れと不安にさいなまれたことを思うと、冷温停止宣言は感慨深い。事故直後からこれまで、あらためて印象を聞きたい。
濱健 原子炉建屋が爆発するなど、想像を絶する被害があった。それを考えれば9カ月での冷温停止は短く、ぎりぎりの期間で乗り切ったという印象だ。
1号機の原子炉建屋が壊れ、骨組みがむき出しになったとき、ただ事ではないと感じた。冷やせない、コントロールできない、何もできない状況だった。東電本店でそれを聞き、正直怖かった。最初は水を入れ、どんどん出てくる汚染水をどうするかが課題だった。循環注水冷却システムが稼動し始めて、やっと先が見えてきたように思う。
古川 原子炉建屋が爆発した映像を見て、一体これからどうなるのか、先がまったく見えない怖さ、不安があった。3月末頃に問題になっていたのは海洋への汚染水漏れ。おむつに使う高分子ポリマーなど急ごしらえの策で何とか急場をしのいでいたが、他に手だてはないのかともどかしさを感じた。
収束には、携わった多くの関係者の労苦や技術があったと思うが、やはり、水処理設備の稼働がポイントだったと思う。特に8月に第2セシウム吸着装置「サリー」を入れたあたりから、収束への道筋もはっきりとしてきた。
山田 確かに節目であることは間違いないものの、「冷温停止宣言」は政府が決めた話であって、原子炉内の状態は依然として変わっていない。今後、燃料を取り出し、建屋を取り除き、除染して、住民が戻って日常生活を送れるようになって、初めてこの事故が終わる。そこまで至らないと、終わったという思いはない。
3月12日の保安院の会見で当時の審議官が「放射性セシウムが検出された」と言った。ある記者が「それはつまりメルトダウンしたということか」と聞いたら、「おそらくそうだと思う」と。日本では原子力発電所は絶対壊れない、メルトダウンしない、だから安全だと言われてきた。自分も10年以上そういうものを書き続けて発信してきたから、自分がこれまで生きてきた証しというか、人生は何だったんだろうとがくぜんとした。
浜義 東北支局に勤務しており、事故当時は宮城県石巻市で被災し、九死に一生を得た。福島第一事故はテレビで見たが、被災地の真っただ中で正直それどころではないという感じだった。自分の周りをどうするかで大変だった。100キロメートルほどしか離れていないが、別の国で起きているように思えた。福島第一原子力よりも女川原子力発電所に関心を持っていたが、その情報がない。東北電力石巻営業所も女川原子力発電所がどうなっているかの情報を持っていなかった。
先日、除染の取材で大熊町へ入ったが、人がいない中で牛や鳥がいる。家には誰もいない。家は住まないとすぐだめになるというが、これを強く感じた。除染については国がこれ以上やっても無駄だという意見もある。だが、避難者が納得するまでやるべき。それが政府と東電の責任だ。
――福島第一原子力の最前線では、東電やグループ企業、メーカー、ゼネコンなどの社員たち、自衛官や消防官など多くの人が、収束に立ち向かったのも印象深かった。
濱健 防護服を着ながらの作業はやりづらい上に、経験、ノウハウがない領域の中で、極めて難しい作業を迫られたと思う。線量さえ低ければ、できることはいくらでもあったのに、線量が高いからできない。被ばくを避けながら復旧することが、いかに大変かを感じた。事故が起きた場合、高線量の中で復旧するという想定を誰もしていなかった。
古川 4月3日の記者会見で、行方不明の社員2人が発見されたことが明らかになったが、ショックだった。2人とも私よりも若い。とても痛ましく、やりきれない出来事だった。
復旧や収束への作業も高線量という通常とまったく違う状況の中で、難しさがあったと思う。先日防護服での作業を体験する現場を取材したが、防護服を着ている間は、トイレにも行けないという。いったんマスクをつけると、眼鏡のずれも直せないなど、様々な苦労話を聞いた。
山田 人が入れない所での作業にはロボットを投入すればいいと言うが、遠隔操作がかなり困難だ。高線量の中でロボットがたくさんのがれきの山を越えて作業をするのは、今の技術レベルでは限りなく不可能に近い。
◆情報の発受信に混乱も 伝える意義と使命痛感
――今回の事故では、情報の提供・公開の仕方、メディアのあり方にも様々な問題点が指摘されたが。
濱健 事故当時は、現場から上がってくる情報量も乏しく、非常に混乱していた。4月から統合会見が始まり、政府と東電の情報発信がひとつになったが、それまでは本当のことを言っているのは誰なんだという状況だった。情報を発信する側も、例えば広報担当の中には専門知識がない人もいて、そこまで詳しくは分からない。プルトニウムに関しては、騒ぎ立てるメディアと東電側に温度差があった。そういう情報への感度という問題もあった。
古川 当初は記者会見で、東電の言うことと、保安院や安全委員会の言うことが食い違っていることも多々あった。4月に入り、統合会見が開かれるようになり、食い違うことはなくなったが、反面チェックする場がなくなったとも言える。果たして規制機関と事業者が一緒に会見をすることがよいのかどうか、疑問も残る。
山田 事故直後は官邸が完全に情報をコントロールしていて、ほかの機関のチェック機能も失われていた。民主主義国家としてはあり得ない事態だ。混乱を防ぐ意味はあったかもしれないが、国民に真の情報が伝わっていたかは大いに疑問が残る。問題だと思う。
意外だったのは、普段は原子力で問題があると騒ぎ立てるメディアが冷静だったことだ。原子力発電や核分裂の仕組みについては専門家が説明してきたが、放射性物質が漏れた場合の対応や燃料が溶けた場合にどんなことが起きるのかは誰も、専門家ですらも考えていなかった。専門家が分からないことを一般市民やマスコミが分かるわけがない。すべてが混乱していたと思う。
浜義 低線量被ばくの影響はないとの意見があるが、政府が言っても信用されない。既に政府の信頼が失墜しているからだ。そもそもこれまで低線量被ばくに関する政府の説明は不足しており、リスクコミュニケーションがとれていなかった。これがあだになった。まずはこれを信用してもらうことが課題だ。
TMIのときは現場に政府の要人が行き、そこで情報発信していた。現場発信ゆえに納得された部分がある。そうした信じてもらうための演出も必要だったのではないか。
古川 記者会見や報道を通して感じたのは、科学的なものの見方、考え方の大切さだ。可能性はゼロなのかと聞かれれば、それはゼロではないと答えてしまうことで、可能性が限りなくゼロに近いことも、99%可能性があることと同列のように誤解され、報じられることもあった。自戒も込めて、客観的かつ科学的なものの見方や報道のあり方、情報の受け取り方を常に問い掛けていかなければならない。
山田 大熊町や双葉町の住民の一時帰宅時に取材をした。大変な思いをしている被災者にマイクを向けることには非難の声があり、自分もそういう思いを持っていたが、中には話を聞いてほしい、つらさを共有してほしいと思っている人もいる。その人の話を聞き、報じることは、その人の体験や存在の証しになると思う。被災者の記憶を残す作業として、被災者への取材にも意味があると感じた。
――事故直後の混乱の中、四苦八苦しながら日々の紙面編集に努めてきたが、振り返ると物事を俯瞰(ふかん)できていたかという点で反省点も多い。東日本大震災と福島事故を契機に、電力・エネルギーを巡る環境は激変し、先行き不透明な状況が続いている。専門紙として読者の期待に沿えるように、物事を俯瞰する視点と、本質を掘り下げる視点を常に意識し、紙面編集に努めなければと感じている。各記者の視点は大変興味深いものがあった。今後の紙面編集に生かしていきたい。
◆福島第一、冷温停止状態に 現場の判断優先すべき 事故調で真相の究明を
――復旧や収束への作業の過程で問題点などは感じたか。
山田 官邸主導でやろうとしたことが対応の遅れを招いたのではないか。原子力発電所で事故が起きたら現場の判断でできることが決まっているのだから、いちいち首相や大臣の判断を仰ぐことはしない方がよかった。
濱健 吉田昌郎所長は事故の前からも現場の尊敬を集めていたし、強いリーダーシップを持っていた。もっと明確に現場の判断で対処できれば、もう少し良い状況になったのではないか。福島第二原子力発電所は国への通報を省いて、現場主体で対策したから、うまくいった面もあったと聞いている。外野が決めるのではなく、現場でどんどん決めていく姿勢があってもよかった。事故直後に官邸や原子力安全・保安院が入ってきたあたりから、現場の自主性が損なわれた。
――東電本店もやりにくかったと思うが、現場との意思疎通に支障はなかったのだろうか。
濱健 本店が現場の判断に横やりを入れたという話は聞かない。少なくとも本店は現場に望みを託していた。事故当初は通信手段も限られていたため、被害把握にさえ時間がかかっていた印象がある。
――事故調査に関しては、東電の社内事故調、政府事故調に加え、国会事故調も始動した。今月初めに社内事故調の報告がまとまったが。
濱健 多くのメディアは「自己弁護」と報じていたが、そういう印象は持っていない。当事者でありながら、最大限、客観的な見方で調査したと思う。調査結果を見て思ったのは、高さ13メートルの津波がきて、冷却機能を失った時点で、その後にどんな対応をしてもだめだったということだ。事故の進展を少しでも食い止めることに必死だったことが分かる。
古川 想定を超える津波で全電源喪失に陥り、なすすべがなかった。確かにそうだが、そう言われても、一般には納得しづらい面もあるのではないか。やはり何かしらの原因はあるはずで、それを追求していくのが事故調査の役割と思う。被災後の対応に要因がないとすれば、事前の備えとして何かしらの要因があったかもしれない。国と一体となり、アクシデントマネジメントを整備してきたことが記されているが、その部分に問題はなかったのだろうか。再発防止という観点に立てば、もう少し踏み込んでほしい。
山田 月末には政府事故調が中間報告をとりまとめるが、どこまで真実に近づけるだろうか。事故の要因と言えるものがあるとすれば、そのひとつは安全神話かもしれない。安全神話がなぜ出来たのか、事故調には徹底的に調べてほしい。政府、原子力事業者、立地自治体の関係も興味深い。そこに光があたることで、俗に言う「原子力ムラ」も改善されるのではないか。
今月始動した国会事故調は、国政調査権も行使できる。政府の対応に問題はなかったのかなど、より当時の真相に迫ることができる可能性もある。
◆燃料取出しに長い年月 広範囲の除染も課題に
――今後の課題のひとつが廃炉になるが、見通しは。
濱健 使用済み燃料プールからの燃料搬出はそれほど困らないだろうが、原子炉の溶融燃料取り出しは技術的に難しく、時間もかかる。とりわけ、格納容器に落ちた燃料の取り出しは、これまで想定さえされていない。しかし取り出さないと、ずっと水を回し続けて汚染水処理を続けないといけない。
山田 燃料を取り出して廃炉にするまで、圧力容器に燃料が残っていたスリーマイル島(TMI)事故でも取り出しに10年かかった。福島第一原子力発電所の場合、10年以内に燃料取り出しに着手する計画だが、ハードルは高い。燃料取り出しの完了には30年では無理かもしれない。作業方法の確立が不可欠だが、未経験の領域。ロボット技術と遠隔操作技術が要になるだろう。実際に溶けた燃料を取り出すとなれば、これをビジネスと考えるしかない。
TMI事故では国際プロジェクトチームを作り、アメリカは各国から参加費用を集め、事故収束の知見を各国に提供した。日本でも同じように各国から技術と資金を集めなければいけないだろう。その前提として、廃炉に取り組む体制構築も急務だ。
古川 取り出した燃料をどう処理するかも問題だが、汚染水処理の残さの問題も無視できない。法的な整備がされておらず、今はタンクにためるしかないのが現状だ。法整備は早く着手すべきだと思う。それが決まらないことにはどうしようもないのではないか。
――除染も大きな課題になる。
浜義 除染については、20キロメートル圏内と計画的避難区域は国がやる。1~20ミリシーベルトの地域は市町村が計画をつくり、国が資金を出す。モニタリングや作業員の安全確保のモデル事業も11月から始めた。
12月11日からは自衛隊が入って、役場の除染を行い、そこを拠点として除染区域を広げている。1月1日に特措法が施行されてから市町村が計画を立てて本格的に始まる。
ごみは3年間仮置き場におき、中間貯蔵施設で30年置いてから県外の最終処分場に出す予定だ。だが、場所はまだ決まっていない。福島県だけで2800万立方メートルのごみが出る。決めなければ、これが宙に浮くことになる。
濱健 除染は範囲が広く、終わりが見通せない。2年後には線量が相当下がっているはずだが、住民にとってみれば、そう簡単に「もういいや」とは思えないだろう。東電も無関係ではいられない。除染には確立した方法もなく、手探りで取り組まなければならない。かなり重い課題になるのではないか。
浜義 帰れないところを国が買い上げるという方法もある。ただ、それにはかなりの国費が必要だ。除染をすることで地元の雇用が確保される面もあり、線引きするのは非常に難しい。
◇福島第一原子力発電所事故の経緯
3月11日 1~3号機、全交流電源喪失と判断
(原災法10条該当事象)
1~2号機、非常用炉心冷却装置注水不能と判断
(原災法15条該当事象)
3月12日 1号機、ベント開始・水素爆発・注水開始
3月13日 3号機、原子炉冷却機能喪失と判断
(原災法15条該当事象)
ベント開始・注水開始
6号機、注水開始
3月14日 3号機、水素爆発
2、5号機、注水開始
3月15日 2号機、ベント開始
4号機、大きな音発生・建屋損傷
火災爆発などによる放射性物質異常放出と判断
(原災法15条該当事象)
3月20日 5、6号機が冷温停止
3月30日 勝俣東電会長記者会見
1~4号機「廃止はやむを得ず」
4月17日 勝俣東電会長記者会見
事故収束への工程表発表「収束に6~9カ月」
5月17日 工程表見直し発表
冠水を断念し、循環注水冷却を優先
6月17日 工程表進捗と見直しを発表
7月半ばまで安定冷却
6月18日 汚染水処理システムが本格稼働
7月19日 工程表「ステップ1を達成」発表
安定冷却を実現
放射線量敷地境界で年間1.7ミリシーベルトに
8月17日 工程表進捗を発表
1号機圧力容器底部100度未満に
放射線量敷地境界で法令限度下回る
8月18日 第二セシウム吸着装置「サリー」本格稼働
9月20日 工程表進捗を発表
冷温停止含む「ステップ2」年内達成を視野
10月17日 工程表進捗を発表
冷温停止を含む「ステップ2」年内に前倒し
11月17日 工程表進捗を発表
1~3号機圧力容器底部70度未満に
放射線量敷地境界で年間0.1ミリシーベルトに
年内に廃炉工程表を策定へ
12月16日 工程表進捗を発表
冷温停止を宣言「ステップ2を達成」