中井久夫訳・ポールヴァレリー著「若いパルク」、八木橋正雄訳「サッフォー詩集」等の翻訳が出ましたが「同業者」からは不評です。
原文のSYNTAXが、「改変」され、翻訳に「反映」されていない。
というのが批判の主旨です。
菱山修三訳「若きパルク」、呉茂一訳「サッフォー(断片訳・部分訳)等の先行訳は、原文のSYNTAXが「残存」しているという主旨です。
名訳は、原詩を一度「頭脳」にインプットし、あたらしい翻訳者の「頭脳」で「咀嚼」し、ネーテヴの言語空間に「置換」して、筆を執り、ペンを走らせることが決定的です。
受験英語のように、原文の構文(SYNTAX)通りに、単語をmot à mot(単語を単語)置換するのは「学習」の「過程」に過ぎません。「翻訳」ではありません。
原文の構文(SYNTAX)が残っているのは「学習訳」で「翻訳」ではありません。
同業者は、原文がそのまま「反映」されていないので「良い訳」でないとのたまわります。
しかし、名訳は「美しいイメージ」を再創造するものでなくてはなりません。
「原文」をより美しい母国語に「再創造」することです。
大学入試の評点の高い「模範的翻訳」は、「悪しき翻訳」です。同業者には歓迎されても、文学史上には残りません。
中井久夫訳ヴァレリー、八木橋正雄訳サッフォー、これらの共通点は、原典からのイメージを頭脳で母国語に置換している点です。「辞書」を片手に翻訳しているのではないのです。
新しい「風景」と「人物」・「詩作品」を今生きている人に置き換えているのです。
でも根幹はそのまま引き継がれています。
ちょうど、模型鉄道が、新天地で走るのを看て、過去の過ぎ去った風景を「読者」に「再創造」させる「自由」を与えているように。
ですから「読者」に「自由を・再創造の自由を」・イメージを膨らませて「提示」することこそ、理想的「翻訳」といえます。
もう、大学入試の受験勉強の段階は終わったのです!
フランス語検定試験や、ギリシャ語検定試験のレベル(過程)は終わったのです。
試験官が「翻訳」を「文学的」に批評すべきではありません。
『翻訳』『名訳』とはそういった『高い次元』のものでなくてはなりません。
恩師「ポール・アヌーイ」神父も、ギリシア語はフランス語に無理に直訳するのは間違っている。ネーテヴな母国語に『昇華』すべきであると!(これはフランス人が日本人学生に常に教えてくれた金言です)